生活と制作㉑ 2021年10月

生活

喉元過ぎればなになにとはよく言ったもので最悪の時期は脱した。無の3ヶ月を過ごした。その内容を守秘義務を遵守して掲載しようと試みたが、ニュースで見る黒塗りの資料みたいにしかならないので諦めた。

8億年ぶりにトレシューを購入した。トレシューとはトレーニングシューズのことである。スパイクのついてないスパイクと言えばよいか。そもそも今の子はトレシューと呼ぶのか。スパイクのついてないスパイクなので上の部分は普通の靴よりも窮屈である。底の部分はゴムでお菓子のアポロくらいのぶつぶつがついているものが多い。購入したものは低価格ながら一部牛革も使用されている。ぴったりと足にフィットする感覚も久しぶりである。ジョギングにしか使っていないのだが、いつかボールを蹴ってみたいものである。

制作

無の3ヶ月を過ごしたことにより当初の2022年3月リリースは見送り、5月リリースで予定を組み直す。スタジオワークを再開した。まずは歌うための身体を取り戻す段階である。

声を重ねる

声は重なることによりその発声者の存在を曖昧にする。良い意味で。
My Little Loverさんの「Hello, Again 〜昔からある場所〜」ではボーカルが重なって聞こえる処理がされている。これがダブリングなのか他の手法なのか判別できないのがDTM初心者という感じだが。ではなぜそれに気がつくことができたか。My Little Loverさんの別の曲「Man & Woman」では声が重なっている部分とそうでない部分があるからアホでも気がついたのである。声が重ねられていない部分からはボーカルの方の個性を強く感じる「Hello, Again 〜昔からある場所〜」では歌詞で「僕」と言っていることもあり、その重ねられた歌声からは個人というものが薄れ少年性を感じる。様々なことが未分化な状態である。
アイドルグループの「同じメロディーを皆で歌うシステム」、ソロのパートは私にとっては聞くのが正直しんどい。でも合唱のパートは聞くことができる。個人ではなく別の「なにか」として捉えることができる。例としては、忍たま乱太郎のOP曲の光GENJIさんじゃないやつである。Ya-Ya-yahさんというジャニーさんのアイドルグループさんが歌っておられる。もっとわかりやすく言うと某アルファベット3文字+数字の女性アイドルグループの手法でもある。
「同じメロディーを皆で歌うシステム」にお経がある。一人のお坊さんによるお経もありがたいが、複数のお坊さんが同時にあげるお経もまた格別である。
声は重なることによりその発声者の「ひとりひとり」という概念はぼやけ、集合としての「なにか」となる。この「なにか」とは「生きているものでも死者でもない、女でも男でもない、大人でも子供でもない」ものである。
ものの本によると、3.11を経て日本文学が獲得したのは「死者の声」だという。「日本文学が獲得した死者の声を、生きているものでも死者でもない、男でも女でもない、子供でも大人でもない重ねられた声で表現する」が今の私のテーマである。幸いなことに私はサッカー部の監督から「女の腐ったような声出すな!!」と怒鳴られるような声を生まれ持った。ありがたいことである。
「生きているものでも死者でもない、男でも女でもない、子供でも大人でもない」重ねられた歌声を意図的に使用して「死者の声」を上手に表現した作品としてFoorinさん×米津玄師さんの「パプリカ」がある。音楽的な部分ではちょっと考えられすぎていて私では「死者の声」と「声が重なる」という部分からしかアプローチできない。
加えて昨今「合成音声」が進化しているらしい。合成音声とは、間違っているかもしれないが、人工的な人の声である。有名な「初音ミク」さんは機械的な要素が残っているが(それが良さでもある)、最近のものは本物と区別がつかない程であるらしい。私はこれを新しい「生きているものでも死者でもない、男でも女でもない、子供でも大人でもない」声となりうるものとして肯定的に受け止めている。今後、これまでの文化が新しい文化に応用された作品が出てくることを期待している。他人任せなのは合成音声の使用は技術・環境・金銭的に私にはハードルが高いからである。


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